人との出会いが未来を作る/Hobioオーナー、”クラウン(道化師)チャッピー”として世界で活躍する橋本淳二さん
- 2017年11月30日
今回は、宮崎県綾町在住のクラウン(道化師)として活躍する橋本淳二さんをご紹介します。山口県出身の橋本さんがどのような経緯で綾町に移り住んだのか?クラウンとなった経緯は?そして、橋本さんの愛車ホンダVAMOS Hobioとの出会いも合わせてご紹介します!
「クラウン」という職業、ご存知ですか?
橋本淳二さん(クラウン名:チャッピー)は現在45歳。宮崎県綾町に住みながら日本各地、海外でも活躍するクラウン(道化師)です。クラウン(clown)とは道化師のことで、ピエロと称されることも多いですが、ピエロはクラウンの役柄のひとつを指します。クラウンは、ロビン・ウィリアムズ主演の映画「パッチ・アダムス」で描かれています。
高校を卒業後、建築関係の仕事に就いた橋本さん。23歳までその仕事を続け、その後29歳まで大型チェーン店の居酒屋の店長を6年続けます。
元々人を楽しませることが好きだった橋本さんはこのとき飲食業は天職だと思っていたそうです。
居酒屋での仕事のなかで、ある転機が訪れます。
29歳のとき、橋本さんが店長を務める居酒屋で日本中を旅して回る旅人がアルバイトとしてやってきました。この旅人のような自由な人達の生き方を見て、こういう生き方をしている人もいるんだと衝撃を受けたそうです。休みなく働いていた自分を「狭い世界で生きている」と思ったそうです。
アフリカへ行きたい!世界観を変えたセネガルでの暮らし
居酒屋で働いている頃、アフリカの太鼓「ジャンベ(セネガルの言い方はジェンベ)」を趣味でやっていた橋本さん。山口県で行われた博覧会にジャンベの演奏家としてステージに出演していた頃があったそうです。その際に見たセネガルの本場のジャンベの演奏を見て感動を覚えたといいます。
そのときに仲良くなったセネガル人に「アフリカにおいで」と言われた橋本さん。アフリカで太鼓を習えば、もっと上手になれるよと言われたそう。
居酒屋の仕事があるものの、アフリカへ行きたい!あの旅人のように、20代のときじゃないと、思いっきり行動はできない!と思い、アフリカ行きを決断します。
29歳のとき、居酒屋を辞めて、山口県からセネガルへ。セネガルにいたのは3ヶ月ですが、その間にジャンベの修行のためセネガルの国立舞踊団に入ります。そこでのトレーニングはとても過酷で、まるでスポーツの世界。とても厳しかったそうです。
セネガルの生活では、「君は、セネガル人だ」と言われるほどに充実した生活だったそう。ジャンベも上達していきましたが、それよりも現地の人と触れ合いを通してセネガルの人たちの
優しさに心を打たれ、涙が溢れるほど感動したそうです。このセネガルの体験が橋本さんの世界観を変えてしまいます。
本物の太鼓(ジャンベ)を広めたいという想い
また一方で、日本にあるジャンベとアフリカにあるジャンベのクオリティの違いに気づいたといいます。日本に入ってきているジャンベは民芸品レベルのもので、アフリカのジャンベは手彫りの演奏用のクオリティの高い楽器でした。また、アフリカでのジャンベの値段は日本で売られている民芸品と同じような値段だったそう。
その本物のジャンベを現地語で交渉して安く手に入れることができた橋本さんは、本物のジャンベを日本で売ることを始めます。
その場所は北海道でした。楽器をコンテナ3個分仕入れ、不退転の覚悟で当時、ジャンベの師匠も暮らしていた北海道へ。販売と修理を担う工房(お店)を開き、コンテナ3個分のジャンベを全て売ることに成功しました。
橋本さんは当時30歳、ジャンベの販売や修理を手がけながら、同時にバンド活動も行っていた橋本さんにまた大きな転機が訪れます。
自分の本質は、人を笑わせること
常々「面白いことをやりたい」と思っていた橋本さん、バンドリーダーをしていた橋本さんは、自分が猿の格好をしてリズムに合わせてリンゴを食べていく「アップルモンキー」というショーを始めました。ある程度 北海道で人気があったそうです。
そしてある日、その橋本さんのショーを見ていたひとりのクラウンに「あなたはクラウンです」と言われたそう。
はじめはクラウンのことを知らなかった橋本さんですが、それからクラウンのことを調べ「自分がやりたいのはこれだ!」と思ったそう。
ここで橋本さんは運命的な出会いが待っていました。その出会った人こそが、クラウンの世界のプレジデント「クラウンK」こと大棟耕介さんでした。
クラウン会では超大物であるクラウンK、その人に気に入られ、橋本さんはクラウンの世界に入ることになります。
ウクライナ、そして東日本大震災を通して
橋本さんは、クラウンのことを学び、修行をしていきながらクラウンKと共にウクライナなど海外にも行くようになります。
ウクライナの病院に訪問してショーに同行したり、日本各地で開催されるイベントに呼ばれてステージでショーをしたりなど、活動の場をどんどん広げていきました。
病院では、入院している子どもたちに赤い鼻のシールを貼って布団に隠れさせ、看護師さんや医師を驚かせるいたずらをして笑わせたりするそうで、その笑いのひとつひとつが、その場の空気を明るく変えてくれるそうです。
橋本さんは2010年にウクライナを訪問したそう。その場所はチェルノブイリにほど近い小児病棟で、放射能汚染が原因の障害を持った子どもたちがたくさんいたそうです。
そして、翌2011年、東日本を地震と津波が襲いました。
橋本さんは東日本大震災後にもウクライナを訪問、その後、震災とウクライナの現状が頭から離れず、いろいろと考えさせられたといいます。
病院でのクラウン活動をもっとやっていきたい、そして、北海道に住んで10年、親も年配になってきて心配なので親の近くに住もうと決心します。
橋本さんの綾町移住を決定付けた深夜のアクシデント
当時、既に日本各地でクラウンのいろいろな仕事をもらっていたという橋本さんですが、親(山口県)の近くで、兄も福岡にいたので、北海道から九州に移り住もうと決めていたといいます。
休みを一ヶ月くらいとって、九州を回ったなかで、福岡県柳川市に良い物件があり、その物件にしようとほぼ決めていたそう。
その後も観光がてら九州を回っていた橋本さん。鹿児島まで行き、宮崎、大分周りで帰ろうと思っていました。
宮崎に立ち寄った際、住むつもり全然なかったそうですが、どんな物件があるのか調べてみようと不動産に立ち寄ると、クラウンのような仕事をしているのなら「綾町」が良いと勧められたそう。
綾町に向かったその夜、アクシデントが発生します。
綾町にあるほんものセンターにクルマを止めて車中泊をしようと思ったら、インロックしてしまい、クルマのドアが開かなくなったそう。すでに夜の11時過ぎ。困り果てて、その時間も空いていたバーに何気なく入ったところ・・・そこには数人のお客さんが。
インロックした状況を説明すると、ちょうどそこにいたのはクルマ販売の営業マンだったそうで、その人がすぐにクルマの鍵を開けてくれたそうです。
それからその人と盛り上がり、一緒に飲もうとなったそう。そして、なんと、そのとき一緒に飲んだ人たちが、綾町役場の人や福祉施設の所長さんなど綾町の中心になっている人たちでした。
そのメンバーとお酒を飲むにつれ、仲良くなっていき、橋本さんは自分の夢を語ったそうです。すると、綾町の人たちから「あなたみたいな人が綾町に必要だ、綾町に住んでくれ」と言われたといいます。
そして、その場にいた綾町役場の総務課の人に、明日役場に自分を頼って来てくれ、と言われたそうです。
綾町にセネガルを感じた
翌日、綾町の町役場に赴いた橋本さん。すると、既に橋本さんのために物件が用意されていたそう。
綾町の人たちの優しさや心遣いに感動した橋本さん、以前のセネガルでの人の温かさを思い出したそうです。すぐに綾町に住もうと思ったといいます。
柳川の物件もほぼ決めていた状況でしたが、「綾町に自分は必要だ」と言ってくれた想いに重心をおいた橋本さん。綾町に住むことで、自分にできる役目があるんじゃないかなと思ったと話してくれました。
2011年の12月に綾町に移住した橋本さん、綾町に住んで今年で6年になります。最初に住んでいた家から、現在の家に引っ越しし、現在もこの場所で暮らしています。トレーニングスペースを併設した現在の家は、以前の建築関係の経験を活かし、自分で設計したそうです。
今では綾町を拠点に、イベントやショー、病院でのクラウン活動などを全国・海外で行っています。
今でも綾町の人たちはよくしてくれ、最初の夜にバーで出会った人とは、今でも飲み会をしてるそうで、今でもかわいがってもらってるといいます。
愛車、ホンダVAMOS Hobioとの出会い
橋本さんは現在、ホンダVAMOS Hobioに乗っています。
その出会いは、綾町に来て1年経った頃、以前一緒に全国を周ってきた軽のバンがついに壊れてしまったそう。そこで、いろいろとクルマのカタログを見ていたところ、ベージュ色のホビオに目が止まります。ベージュのカラーがクラウンにも合いそうだし、可愛らしいなと思ったそうです。
Honda Cars宮崎中央 神宮店に行った際、営業の竹井さんと出会います。竹井さんは橋本さんに対し、とても良くしてくれたそうで、橋本さんは「ここで買おう」と決めたとのこと。最終的には、人の良さで車を決めた、と話してくれました。
橋本さんと竹井さんは、それからこれまで5年以上の付き合いだそうです。
橋本さんのホンダVAMOS Hobioは今でも現役で橋本さんのクラウン活動を支えています。経ですが、荷物もたくさん積めるので、クラウンの仕事にピッタリだそうです。
クラウン”チャッピー”としてのこれから
今現在、クラウンの先生として研修生を5人抱えてるという橋本さん。九州のトレーナーもやっていて、新しい人材を育てることも担っています。
綾町にいながら、全国や海外でクラウンの活動を積極的に行っています。
「全ては、人とのつながり」と話してくれた橋本さん。
クラウンならではの笑顔と笑いで、これからも誰かと出会って新しいつながりを作っていきたいと話してくれました。