DON’T STAY INTERVIEW#3 終わりなき盆栽の世界を極める – 野元大作さん
宮崎市大島町にある盆栽園「野元珍松園」の野元大作(のもと だいさく)さんは現在40歳。宮崎生まれの宮崎育ち。
なぜ彼は若くして盆栽の世界に入ったのか、どのようにして現在の技術を身に付けることができたのか。彼を魅了した盆栽の魅力とは?
日本を代表する盆栽作家のひとり、野元大作さんのこれまでと、これからのビジョンについてのレポートです。
盆栽とは程遠い、幼き頃の夢
野元さんの祖父は趣味で盆栽を、父は仕事として盆栽園を営んでおり、野元さんは小さい頃から盆栽に囲まれて育ちました。
しかし、小さい頃は盆栽に興味があまりなく、正直そんなに好きではなかったと語ります。
以前からアメリカに強い憧れを持っていた野元さん、中学校2年のときに父から、子供だけで参加するアメリカツアーがあることを教えてもらいます。この話を聞いて、野元さんはアメリカに行くことを即決。約2週間のアメリカツアーへ参加しました。この経験が元で、野元さんには旅行の添乗員になって世界を飛び回りたいと思っていたそうです。
今では盆栽作家として全国、そして世界を飛び回る野元さん。
この頃の夢がある意味形になっています。
反骨心から生まれた道
野元さんは18歳で5年間の盆栽の修行に入ります。きっかけは、父から「お前には跡を継がせない」と言われたひと言。そのひと言に奮起し、盆栽の世界に入ることを決意します。
修行先となったのが、愛知県安城市にあった「樹八園」。ここに2番弟子として入門します。
5年間の修業を経ることで、職人としてスタートする形になります。その修業はとても過酷だったそう。親方の言うことは絶対で、上下関係はとても厳しかったとのこと。
朝6時に起床、犬の散歩、トイレ掃除を終わらせてから朝ごはんを食べ、その後も分刻みのスケジュール。1ヶ月の給料は15000円で、贅沢はできず、靴下やTシャツが破れたら自分で縫って使っていたそうです。
トイレ掃除ひとつとっても、30分で出来た作業を次は20分に、次はよりキレイにというように次々と改善を続けなければならなかったそうです。この作業も「完成」というゴールのない盆栽と同じで常に進化が求められる盆栽の世界に通じるもの。
また、親方が何も言わなくても、手の動きでコーヒーなのか、お茶なのか新聞なのかを判断する必要がありました。
親方曰く、盆栽はしゃべらないもの。盆栽を相手にするのに人間の気持ちがわからないとダメ。という教えなのだとか。
修行当初は雑用でしたが、修行開始から2ヶ月後。早くも盆栽を触ることを許されます。キャリアをできるだけ早くスタートさせるという親方の考え方だったそうです。
そして、いきなり「芽切り」という作業をした木が、3000万円弱、鉢も高額な盆栽だったとのこと。これは、値段を聞いて臆してはいけない、すべての仕事に全力で取り組みなさい、という親方の教えだったそう。
野元さんは、盆栽の修行では、盆栽の技術だけではなく、人間性も磨かれたと話してくれました。
野元さんを魅了した盆栽の魅力とは
野元さんが盆栽に魅せられたのは修行1年目の頃。
盆栽は、今日やった作業がその日に答えが出るものではなく、枝を切るなどの作業が1年後の結果につながることもあるということを実感します。その経験を繰り返すうちに、盆栽のことが分かり始め、面白くなっていったそうです。
盆栽は数十年、長いものでは数百年の歴史を持っているものもあります。その分奥が深い。その歴史の一部に携われることが嬉しいと語ります。
修行4年目のとき、自分が手入れした盆栽が国風盆栽展で入選を果たします。これが自信になり、盆栽がより面白くなっていきました。
その後、野元さんが手掛けた作品が次々と入選。ピークのときは全体で250本の入選作品のうち、十数本が入選したこともあるとか。
野元さんは、18歳から23歳まで5年間続いた修行を経て晴れて弟子と認められます。それから2年間、25歳まで樹八園の職人として働きました。その後宮崎に戻り、宮崎市大島町にある「野元珍松園」で働き始めます。
野元さんが海外で挑戦する意味
野元さんは、23歳の頃から毎年アメリカで盆栽の講習会を開催しています。
そのきっかけは、修行先によく来ていたアメリカ・サンフランシスコにある盆栽園を訪ねてアメリカに行ったこと。最初にアメリカに行ったときは、行き当たりばったりで、なんとかなるだろうと盆栽の道具だけ持っていったそうです。
アメリカに着いて盆栽関係の会社を探し、お手伝いをさせていただく事になりました。
ちなみに野元さん、英語はカタコトでしか話せませんが、盆栽のお手伝いの合間にいろんな所でデモンストレーションや講習会などを頼まれたそうです。
日本に帰る際、「来年も来てくれ」と言われ、そこから毎年アメリカへ行くようになったそうです。
それから15年。去年くらいから、サンフランシスコに加え、シアトル、ベルギー、ダラスなどにも行き、今年はミラノにも行くことが決まっているとか。野元さんの海外での活躍の範囲はどんどん広がっています。
盆栽は世界共通語となっていて、海外でも人気があり、今では日本も含めて若い人たちにも人気が広がってきているそうです。
観葉植物から盆栽への人気の流れも顕著で、飲食店などに盆栽を置くことも増えてきたそうです。
盆栽作家として究極を目指す
今では九州各県、遠くは名古屋までお客様がいる野元さん。
「日本小品盆栽組合」の常任理事と九州支部長でもあり、日本各地を飛び回っています。日本各地を行き来しながら、そのときに仕入れをしたり、お客さん先を回ったりしているそうで、なんと、関東地方に行くときも車で行くとのこと。4日間で3000km走ることもあるそうです。
野元さんのこれからのビジョン、それは、盆栽界から言えば、盆栽をもっと若い世代にも広めていきたいという思いがあります。
また、個人的には、完成というゴールのない盆栽。そこを突き詰めて、盆栽作家として究極に近づきたいと語ってくれました。
盆栽作家とは、盆栽の今ある姿を最高の状態に持っていく仕事です。絵画や彫刻とは違い、盆栽は生きた美術品。
その歴史に携わるのが盆栽作家であり、野元さんはその世界を極めるべく、現在も切磋琢磨を続けています。